2008年
05月
02日
(金)
21:53 |
編集
しばらく書いてなかったので
久しぶりに思いつくままに書いてみます。
「美しく、しっくりくる本のデザインとは?」
チヒョルトの見いだした紙面設計の基本的プロポーションの法則は、
確かに美しくて合理的であり、かなりの説得力を持って僕に迫ってくる。
しかし、チヒョルトが理想とし、
分析していた時代の書物とその周辺の環境は、
現代とはまるで違うことを考慮すると、
必ずしもこのプロポーションが現代に通じるものであるかは、
正直疑問が残ると言わざるを得ない。
読書の姿勢だけをとっても、
現代人の読書スタイルは、当時とは比べ物にならないくらい多様化している。
良いか悪いかは別として、書物はもはやかならずしも
書見台の上でなされるものではなく、ベッドの上から電車の中、
公園のベンチ、様々なシーンに合わせて版型も様々である。
サイズやシーンによって、それぞれのマージンの意味合いも変わってくる。
単なる美的要素としてでなく、
どのように本が持たれるのかを考慮する必要があり、
時にはそちらの方が比重が高くなることさえある。
久しぶりに思いつくままに書いてみます。
「美しく、しっくりくる本のデザインとは?」
チヒョルトの見いだした紙面設計の基本的プロポーションの法則は、
確かに美しくて合理的であり、かなりの説得力を持って僕に迫ってくる。
しかし、チヒョルトが理想とし、
分析していた時代の書物とその周辺の環境は、
現代とはまるで違うことを考慮すると、
必ずしもこのプロポーションが現代に通じるものであるかは、
正直疑問が残ると言わざるを得ない。
読書の姿勢だけをとっても、
現代人の読書スタイルは、当時とは比べ物にならないくらい多様化している。
良いか悪いかは別として、書物はもはやかならずしも
書見台の上でなされるものではなく、ベッドの上から電車の中、
公園のベンチ、様々なシーンに合わせて版型も様々である。
サイズやシーンによって、それぞれのマージンの意味合いも変わってくる。
単なる美的要素としてでなく、
どのように本が持たれるのかを考慮する必要があり、
時にはそちらの方が比重が高くなることさえある。
また、内容についても、今はあらゆることに関して本が書かれている。
よく見てみれば、週刊誌からハードカバーまで、
既にある程度それぞれの様式が出来上がっているようにも見えるし、
それぞれの分野で、消費されていく部分と、
守られるべき部分とのせめぎ合いがあるように思う。
こうなってくると、デザインの質の善し悪しを、
ある一つの観点でのみ語ることができないということが起こりうるし、
そうした現実の中で、デザイナーはただ、
ひたすら今目の前の仕事に没頭し、掘り下げ、考えて、
答えを出すしかなくなっていく。結果、実績の蓄積でしかなくなり、
積み重ねというよりも、毎回違う形の積み木を
一から積み上げていくような心境になりかねない。
では、デザイナーが学ぶべき本当のスキルとは何だろう。
極端な話をしてしまえば、常識的な理解力と、
制作に関する基本的な知識さえあれば、
あとは本人のやる気次第でデザインはできてしまう。
昨今の急激な制作過程のデジタル化とソフトの流通によって、
誰でがプロと同じ道具を使って物が作れてしまう現状の中で、
プロのデザイナーとして何を付加価値として提供できるのか、考えてしまう。
それはセンスだろうか。発想力だろうか。表現力だろうか。。。
どれも必要だがそれだけでは何かが足りない気がしてしまう。
話を戻すが、冒頭で「しっくりくる」という言葉を使ったのは、
これこそがデザインにおいて中核を担う言葉だと僕が思うからだ。
どんなに美しくても、発想が飛び抜けていても、
緻密で複雑で、すばらしき歴史的蓄積の上に成り立つデザインであっても、
「しっくり」こなければ元も子もない、
というのが最近僕が仕事をしていて実感することだ。
デザインにはかならず「受け手」が存在していて、
その受け手の「しっくり」にフィットすることができなければ、
どんなにそれが他の部外者に受け入れられようと
(たとえばデザイナーの集団のなかで賞を取ろうと)
そのデザインは機能していると言えないのではないか。
結局のところ、受け手のない表現は成り立たないわけであり、
受け手のことをどこまで考え、表現できるかがデザインの鍵になる、と僕は思う。
どんなに作家的振る舞いをするデザイナーであっても、
そのデザイナーを選んだ時点で、
既にクライアントが一定の表現をしていると捉えられるわけだし、
そういう意味では、
企画から受けてに届くまでに関わるすべての人が表現者であるとも言える。
受け手とは本で言えば言うまでもなく読者であり、
読者のことを考えない文字組などあり得ないわけだ。
ただし、考えた末にそっけなく振る舞ったり、手厚くもてなしたり、
それが読者に取って一瞬違和感をもつようなものであっても、
それを考慮しつつデザインしてあることがあったっていい。
普遍的な可読性なんてものはないに等しいし、
そもそも自分にとって読みやすい、
読みにくいかもわりと曖昧なものなんじゃないだろうか。
そもそも文字は読みにくいものだ。
意味をもつ音を、音素をもとに記号に変換して、
それを見た他者がそこから同じ意味を読み取るなんて、
声のコミュニケーションと比べれは一段階回りくどい。
その扱いづらさをどう調整するのか、
それが文字組であって、どういう出力をするかは方法論なんてないし、
自分のこれまでの常識的範囲をしっかり見据えることで、
それぞれ最適な「読みにくさ」は見えてくるのではないかと思う。
ここで実例をあげることはきりがないのでやめておく。
自分自身ここで挙げたようなことが実践できているかどうかを
評価するのはそもそも自分ではできないしどうしようもないことだが、
できるならば今後、
このような評価がきちんとされるようなデザイナーでありたいと
切に思う今日この頃。
特に暴論を吐いているわけではないと思うけど、
至らないところあればそこは個人的ブログですのでご勘弁を。
ご指摘いただけたらと思います。
よく見てみれば、週刊誌からハードカバーまで、
既にある程度それぞれの様式が出来上がっているようにも見えるし、
それぞれの分野で、消費されていく部分と、
守られるべき部分とのせめぎ合いがあるように思う。
こうなってくると、デザインの質の善し悪しを、
ある一つの観点でのみ語ることができないということが起こりうるし、
そうした現実の中で、デザイナーはただ、
ひたすら今目の前の仕事に没頭し、掘り下げ、考えて、
答えを出すしかなくなっていく。結果、実績の蓄積でしかなくなり、
積み重ねというよりも、毎回違う形の積み木を
一から積み上げていくような心境になりかねない。
では、デザイナーが学ぶべき本当のスキルとは何だろう。
極端な話をしてしまえば、常識的な理解力と、
制作に関する基本的な知識さえあれば、
あとは本人のやる気次第でデザインはできてしまう。
昨今の急激な制作過程のデジタル化とソフトの流通によって、
誰でがプロと同じ道具を使って物が作れてしまう現状の中で、
プロのデザイナーとして何を付加価値として提供できるのか、考えてしまう。
それはセンスだろうか。発想力だろうか。表現力だろうか。。。
どれも必要だがそれだけでは何かが足りない気がしてしまう。
話を戻すが、冒頭で「しっくりくる」という言葉を使ったのは、
これこそがデザインにおいて中核を担う言葉だと僕が思うからだ。
どんなに美しくても、発想が飛び抜けていても、
緻密で複雑で、すばらしき歴史的蓄積の上に成り立つデザインであっても、
「しっくり」こなければ元も子もない、
というのが最近僕が仕事をしていて実感することだ。
デザインにはかならず「受け手」が存在していて、
その受け手の「しっくり」にフィットすることができなければ、
どんなにそれが他の部外者に受け入れられようと
(たとえばデザイナーの集団のなかで賞を取ろうと)
そのデザインは機能していると言えないのではないか。
結局のところ、受け手のない表現は成り立たないわけであり、
受け手のことをどこまで考え、表現できるかがデザインの鍵になる、と僕は思う。
どんなに作家的振る舞いをするデザイナーであっても、
そのデザイナーを選んだ時点で、
既にクライアントが一定の表現をしていると捉えられるわけだし、
そういう意味では、
企画から受けてに届くまでに関わるすべての人が表現者であるとも言える。
受け手とは本で言えば言うまでもなく読者であり、
読者のことを考えない文字組などあり得ないわけだ。
ただし、考えた末にそっけなく振る舞ったり、手厚くもてなしたり、
それが読者に取って一瞬違和感をもつようなものであっても、
それを考慮しつつデザインしてあることがあったっていい。
普遍的な可読性なんてものはないに等しいし、
そもそも自分にとって読みやすい、
読みにくいかもわりと曖昧なものなんじゃないだろうか。
そもそも文字は読みにくいものだ。
意味をもつ音を、音素をもとに記号に変換して、
それを見た他者がそこから同じ意味を読み取るなんて、
声のコミュニケーションと比べれは一段階回りくどい。
その扱いづらさをどう調整するのか、
それが文字組であって、どういう出力をするかは方法論なんてないし、
自分のこれまでの常識的範囲をしっかり見据えることで、
それぞれ最適な「読みにくさ」は見えてくるのではないかと思う。
ここで実例をあげることはきりがないのでやめておく。
自分自身ここで挙げたようなことが実践できているかどうかを
評価するのはそもそも自分ではできないしどうしようもないことだが、
できるならば今後、
このような評価がきちんとされるようなデザイナーでありたいと
切に思う今日この頃。
特に暴論を吐いているわけではないと思うけど、
至らないところあればそこは個人的ブログですのでご勘弁を。
ご指摘いただけたらと思います。
home
...
この記事へのコメント
正直この穴だらけのエントリをもとに議論するのが
恐縮なんですけど、自分が考える事を促すためにやっていることなので、
自分の補足をしながらの答えになることをお許しください。
あとは本人のやる気次第でデザインはできてしまう。
おそらくここが多くの方の反感を買う部分なんじゃないかと
思います。というか僕自身も読み返して抵抗がありますが、
あくまで「できてしまう」レベルでの話であって、
この際、その質の話はおいといてます。
まずそれを前提においてみてください。
そういったデザインとプロのデザイナーが
していることの違いとは何か。
どう見せるかの部分が単調になってしまい、
積み木の積み替えのようになるのではと思います。
僕も正直これを書くまではそう思ってました。
ただ、その歴史的蓄積、というのが、どの程度の範囲なのかが問題なのかな、
と思いました。それと同時に、表現という行為自体が、
歴史が進むにつれて、ある程度の歴史への理解がないと
成り立たなくなっていることも事実だと思います。
ただし、表現するという行為自体には、本来は何の制約もないはずですし、
歴史に対する理解というのは、分析的なことに必要な要素ではあっても、
純粋な表現行為の絶対必要条件なんだろうか、と、
最近疑問に思ってしまうのです。
自分がある対象に対して、最適なデザインの回答が出せなかったとき、
それがなぜだったのかをつきつめて考えると、
今のとこの自分の一番の問題点は、
読者とそのデザインの対象に対する理解度の低さでした。
誤解を招くといけないので断っておきますが、
自分が歴史的なことを完全に勉強しきったと
思っているわけでは決してありません。
その勉強はまだまだ必要だとも思っていますが、
ただ、今、これから、何を自分が一番にするべきかを考えたときに、
そういった勉強は平行して進めるとしても、
まずしなければいけないのはやはり、
現場でのコミュニケーション、
対象に対してきちんとのめり込むことではないのかと思う、
ということです。
逆に考えれば、歴史的な流れの上に立つことで、
しっくりくるデザインにたどりける、
という確信がもてればいいのですが、どうも自分の実務と
勉強してきた事の齟齬があるような気がしてならない、
というのが、正直な自分の日々の感想なんです。
どう見せるのかが単調になるのは、
歴史的文脈の不勉強だけが原因なのか、
簡単にそう言い切っていい問題なんでしょうか。
というのが自分の中で日々悶々としていることなのかな、
と思っています。
・・・回答になっているのか非常に不安ですが。というか、自分のブログにこんなに長いコメントを書くのは初めてです。
恐縮なんですけど、自分が考える事を促すためにやっていることなので、
自分の補足をしながらの答えになることをお許しください。
あとは本人のやる気次第でデザインはできてしまう。
おそらくここが多くの方の反感を買う部分なんじゃないかと
思います。というか僕自身も読み返して抵抗がありますが、
あくまで「できてしまう」レベルでの話であって、
この際、その質の話はおいといてます。
まずそれを前提においてみてください。
そういったデザインとプロのデザイナーが
していることの違いとは何か。
どう見せるかの部分が単調になってしまい、
積み木の積み替えのようになるのではと思います。
僕も正直これを書くまではそう思ってました。
ただ、その歴史的蓄積、というのが、どの程度の範囲なのかが問題なのかな、
と思いました。それと同時に、表現という行為自体が、
歴史が進むにつれて、ある程度の歴史への理解がないと
成り立たなくなっていることも事実だと思います。
ただし、表現するという行為自体には、本来は何の制約もないはずですし、
歴史に対する理解というのは、分析的なことに必要な要素ではあっても、
純粋な表現行為の絶対必要条件なんだろうか、と、
最近疑問に思ってしまうのです。
自分がある対象に対して、最適なデザインの回答が出せなかったとき、
それがなぜだったのかをつきつめて考えると、
今のとこの自分の一番の問題点は、
読者とそのデザインの対象に対する理解度の低さでした。
誤解を招くといけないので断っておきますが、
自分が歴史的なことを完全に勉強しきったと
思っているわけでは決してありません。
その勉強はまだまだ必要だとも思っていますが、
ただ、今、これから、何を自分が一番にするべきかを考えたときに、
そういった勉強は平行して進めるとしても、
まずしなければいけないのはやはり、
現場でのコミュニケーション、
対象に対してきちんとのめり込むことではないのかと思う、
ということです。
逆に考えれば、歴史的な流れの上に立つことで、
しっくりくるデザインにたどりける、
という確信がもてればいいのですが、どうも自分の実務と
勉強してきた事の齟齬があるような気がしてならない、
というのが、正直な自分の日々の感想なんです。
どう見せるのかが単調になるのは、
歴史的文脈の不勉強だけが原因なのか、
簡単にそう言い切っていい問題なんでしょうか。
というのが自分の中で日々悶々としていることなのかな、
と思っています。
・・・回答になっているのか非常に不安ですが。というか、自分のブログにこんなに長いコメントを書くのは初めてです。
2008/
05/
09 (金)
03:
11:
16 |
URL |
aomatsu #
-[
編集
]
最近私が思うのは、デザイナーが読み手を十分に理解した上で、訴求内容や企画を十分に理解し、アプローチを立案したとしても、青松さんの言う、緻密で複雑で、すばらしき歴史的蓄積の上に成り立つデザインなどを理解していなければ、歴史的に蓄積されてきた考えの応用が出来ないので、どう見せるかの部分が単調になってしまい、積み木の積み替えのようになるのではと思います。
なので、何を見せるかの部分では、読み手の過去から未来の位置付けを正しく位置づける能力や、問題発見から解決能力など様々な能力が必要とされると思います。どう見せるかの部分では、歴史的に蓄積されてきたものや、様々な表現力を理解し、それを応用する能力が必要だと思います。
「応用」と一言で言うのは簡単ですが、これにもまた様々な能力が必要かと思います。私自信、応用出来ていると思わないので、どんな能力が必要とされるかは分かりませんが、多くの表現方法を調べ、実践することなのだろうかと思ったりしてます。これらが出来て、しっくりくるのかしらと思いました。
どうでしょう。
なので、何を見せるかの部分では、読み手の過去から未来の位置付けを正しく位置づける能力や、問題発見から解決能力など様々な能力が必要とされると思います。どう見せるかの部分では、歴史的に蓄積されてきたものや、様々な表現力を理解し、それを応用する能力が必要だと思います。
「応用」と一言で言うのは簡単ですが、これにもまた様々な能力が必要かと思います。私自信、応用出来ていると思わないので、どんな能力が必要とされるかは分かりませんが、多くの表現方法を調べ、実践することなのだろうかと思ったりしてます。これらが出来て、しっくりくるのかしらと思いました。
どうでしょう。
2008/
05/
09 (金)
02:
10:
17 |
URL |
香村 #
-[
編集
]





