majime - note
青松 基のブログ。デザイン・アート・日常のことなどとりとめなく書き綴っています。
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またブログひっこします。
2010年 07月 13日 (火) 02:49 | 編集
ということで、3回目のひっこし。


とくに意味はありません。
ただのリフレッシュ。だと思ってください。


いろいろいじりすぎたテンプレートにうんざり、とか、
もっと簡単でお手軽な機能が、とか、
言い出したらきりないけどそれは全部理由というより言い訳であって、
結局意味はそんなにない。



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http://aomajime2.blogspot.com/

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金魚は気にしないでください。
そのうちいなくなるかも。
クリックで餌、あげられます。



ということで、次回からこっちで、
またぼちぼち更新していきますので、
よろしくおねがい致します。
m(_ _)m ←今更こんな絵文字使うのかな。。。
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どうしちゃったんだ僕は
2010年 05月 22日 (土) 19:03 | 編集
『動物化するポストモダン』の話の続き。
この本の肝になっているところとして、オタクと呼ばれる人たちの消費原理を「データベース消費」として解説する箇所がある。創り手側が、無意識に、あるいは意識的に「萌え」る要素を分解して、データベースのように蓄積して、それらの分解された要素を組み合わせてすぐに新しい作品が作られ、消費するサイクル。しかもその単純構造自体を、オタク自身もまた意識している。さらに、「萌え」の要素のデータベースを駆使して、今度は消費者自身が、二次創作、三次創作を繰り返すような同人誌というシステムで、「創り手」という概念すら曖昧になっている世界。物語も、細かい設定として徹底的に要素化されて、これもまたデータベース化されて、組み合わされて、無数のパターンとして生産され続ける。こういう創作世界で生み出されるものを「シュミラークル」と呼ぶんだそうです。そしてこのある種冷めた、もはや食欲に近い単純な消費行動を「動物化」している、と定義する。んーやっぱり実際読んだ方がもっと解りやすいなぁ。

この話でピンとくるのは、例えば音楽の世界で言えばDJ的だし、デザインの世界で言えば広告的なものだったりする。無数にある作品のデータベースの中から曲を選びとって、繋ぎ合わせ、アレンジすることを「オリジナル」と呼べる感覚はたぶんポストモダン的なんだと思うし、最近の広告の作られかたが、ほとんど定型化された型の選択というカタチで制作されている感じ、常に「○○っぽさ」をまといながら、中に入れるものを変えていくことで、消費者にとっての「新しさ」を創り出そうとしている感じも立派にポストモダン的。

で、やっぱりそれを僕は感情として受け入れ難いわけで。そうやって認識した世界にはもはや「激しく打ちのめされるほどの感動」を期待できないような気がするし、そういう世の中のために僕は今ここにいるんだろうかって気持ちになっていく。

でも、何をやっても、「今までで誰かがやっていた感」を感じ続けながら、それでも創作し続けなきゃいけない、というのは、現代では逃れようがないのも確かで、その中で生き延びる術として、ここまで書いてきたようなやりかた、消費の構造ができていくのはやっぱり必然的だったのかもしれないし。

ではでは、ポストモダンのポストってあるんだろうか。
そもそも現代的って言葉の中身自体が常に更新されているんだから、
この言葉の使い方から考え直したほうがいいんだろうね。


今日は暇なのでちょっと長いな。
動物化っておそろしや
2010年 05月 19日 (水) 01:20 | 編集
自分が、世の中の消費促進に関わる仕事をしている、
という感覚は、いつも僕の中に何かモヤモヤしたものを抱かせる。
『動物化するポストモダン』を読んでいるんだけど、
動物の食欲のような「動物的欲求」と
性欲などの一旦他者をはさんだ(嫉妬などの感情を含めた)「人間的欲望」の話で、
どんどん広告などの販売促進の手法が効率化されて、
人は食欲はもとより性欲やらの人間的な欲望すらも、
簡単に「消費」していくさまを「動物化」と呼んでいるところで、
僕にとってはすとんと腑に落ちる現状認識だったし、
同時に憂鬱にもなった。

東浩紀(『動物化するポストモダン』の著者)は
村上隆のポッドキャストで最近頻出して気になってきたので読んでみたんだけど、
まずはきちんと読まなくてはと思う人になりつつある。
もはや今、この人を読み始める、という事自体ドミーハーだけど、
そういう後ろめたさはあまり気にしないことにしているので、
まずは近著で読みやすそうなものから手に取ってみた。
正直もう少し希望の持てる話にならないかなぁというか、
人によっては読んで希望を見出せるんだろうけど、
どうもこういう世界観は「現状認識」であって決して「肯定」はしたくない、
というのが正直な気持ち。
ここで出てくる「ポストモダン的」ってすごく便利な考え方で、
今、世の中にある文化的営みを片っ端から語り尽くせそうな感じがするんだけど。
そのことに手放しで喜べない感覚はある。

僕はオタクではないのでなかなかしんどい時はあるんだけど、
他にも宇野常寛とか、黒瀬陽平とか、東浩紀周辺のゼロアカ勢というか、
全部ポッドキャストの受け売りなのできちんと理解していないんだけど、
今、この人たちの周りに起こってることってやっぱりなんか面白そう。
ほどよい距離でまずは読んでみようかと。



他、買ったのに読めてない本。


批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判
(2009/10/16)
宇野 常寛更科 修一郎

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批評繋がりでまず気になってた本。やっと買った。
けどまだ読めない。スラムダンクのあとね。



勝つために戦え!〈監督篇〉勝つために戦え!〈監督篇〉
(2010/02/26)
押井守

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ウィークエンドシャッフルにはまっているので、
『フェルマーの最終定理』の次はコレダ!
きっと「おすすめです!」



ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない[増補新装版]ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない[増補新装版]
(2010/03/19)
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あちゃー 買っちまった。
アマゾンこえー



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まず、半年以内には飼います。金魚。
このことについてはまたの機会に語りましょう。
まずは読まなきゃ。
グラフィック or 建築
2010年 04月 13日 (火) 01:59 | 編集
例えば一戸建てを設計する建築士と、
パルコの広告をデザインするグラフィックデザイナーとのあいだにある
明確な違い。エンドユーザーとの直接対話と、
不特定多数に向けたオープンなコミュニケーション。
どちらが正しいとかではないけれど、
一見して真っ当なことをしているのは間違いなく建築家だ、
と僕は思ってしまう。

これは不特定多数の読者を想定して雑誌をデザインする
自分も完全にあてはまることなんだけど、
不思議なのは、エンドユーザーとの対話を一方で欲しつつ、
それが具体的になってしまった時点である種世界がそこで
閉じられてしまうということへの倦怠感も、一方で感じること。
二つの相反する気持ちを抱え込みながら、
あーでもないこーでもないとぐつぐつしながら作っている自分の中には、
敢えて言うなら多少のマスターベーション的思考がある。
これは事実だけれど、ボールは壁ではなく虚空に放り投げたほうが
きっと面白いことが起こると、これだけは信じたい。

1対1対応の答えを見つけながら組み上げていくような仕事も、
してみたいなと思う。みんなオープンなコミュニケーションに
慣れすぎてしまって、むしろ無責任というほうがしっくりくることが多い。
何かそこに、期待のような、希望のような、夢といっても差し支えないような、
そういうキラッとしたものをこめて、ものを作ってる人の作品は、
やっぱりそれそのものがキラッとしている。それは確かだ。
1対1の問答の中には、雑誌のデザインよりは明らかに確かな答えがある。
(もちろん1つではないし、正解は確かめようもないもの同じだけど、
 なんていうんだろう、答えの「確度」は高いというか。)
そういった小さな答えを、海辺で貝殻を拾うように、
ひとつずつ拾いながらものを作る感覚を、味わってみたいとも思う。

それでも僕は、建築家には、ならないと思う。

むしろちょっと離れたところで、
その答えを拾う姿を、眺めて楽しむくらいが丁度いいのかなと思う。

確かな結果が欲しいわけじゃないのだと思う。

瞬間芸のように、その時、その時間にしか生まれ得ないものを、
作り続けるオープンエンドな感覚は、きっと建築よりも、
グラフィックデザインのほうが面白いに決まってる、と言い切ってみる。

近接した違う分野の人と話すのはやっぱり面白いなぁ。
もっとしたい。
勝たず負けざる引き分けざる
2010年 02月 24日 (水) 01:40 | 編集
『インビクタス(負けざる者達)』を観てきました。

http://wwws.warnerbros.co.jp/invictus/

僕の生活の中から、「戦い」が消えていっている気がする。
徐々に、じわじわと。もっと具体的に言えば、
戦う前から負けている、ということがある。よくある。
これはどういうことだろう。これもインビクタス?
とはちょっと違う、気がする。

映画の中でマンデラは、戦って、勝つために、
そこに対してまっすぐに、手を尽くす。
周囲からは一見おかしな、道義に反することでも、
彼の道義からみれば、それはまっすぐなのだ。
レインボーカントリー(?だったっけ?)にまっしぐら。

仕事に置き換えると、道義は利益に置き換えられて、
正面から戦って勝つことより、
三国志の策士よろしく、戦う前から勝つことを考える。
どう考えたってそのほうが省エネだし、文字通りエコだし。
あ、エコって結局、利益率向上っていう
資本主義に回収されつつ広がってる感があるけど、
そもそもそれでいいんだっけか?

いやいやそうじゃなく、
だから日常的に「戦い」の場を見ることがほんとに少なくなった。
僕は一見静かで無愛想で人見知りに見えるんだけど、
ていうかそうなんだけど、意外と怒りっぽく、
いや意外だと思ってるのはお前だけだぞというつっこみは
そっとかわすことにして、
その怒りをとにかく抑えて抑えていくことで仕事を回している感が、
自分の中だけではある。いや、大人になれよ、と。

で、この映画を見て、いや、まてよ、
感情を先回り先回りして抑えに抑えて着地した仕事より、
すったもんだ丁々発止七転八倒死屍累々の果てに
ごろっと転がり出るような、そんな仕事も、
ほんとうのほんとうには、悪くない、というかベスト、
な気がする、とちょっぴり思ってしまったのです。

うまーくうまーく先回りして、
しっかり自分の思った通りに相手をコントロールしきって、
もうその相手もコントロールされてることに気づきすらしなくて、
お互い「ありがとうございました!」って終わるより、
ぶつかり合ってやりあって、
そのあげくになんとかお互いの接点を探し当てて、
「ま、お互い色々あったしお前のことも気に食わないけど、
 結局いいもんできたね、よかったじゃん。」
って終わるほうが、なんか幸せ。な気がするのです。
これはもちろん、「いいもん」ができることが前提、ですが。

いやいやそんなんじゃやってけるわけねーよばかじゃねーのめんどくせーと、
もちろん僕だって思ってないわけじゃないんだけど、
どっかしらに、素直に進みすぎることへの「物足りなさ」みたいなものを
感じることは実際あるのでした。


ってことで、全く映画の説明なし!
しかも主題からもだだズレ!
でも良い映画でした!おわり。
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