majime - note
青松 基のブログ。デザイン・アート・日常のことなどとりとめなく書き綴っています。
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デザインチャンネラー
2010年 03月 22日 (月) 02:49 | 編集
You Tubeのデザインチャンネルにはまってしまった。

デザインやってる人間に必要なのは、
強引さと緻密さ、なんじゃないかなぁと。
伊藤豊雄さんの講義を見ていて、
建築素人としてふと思ってしまった。

ぱっとみ「そりゃいくらなんでも強引でしょ!」って発想を、
きちんと緻密なスタディーを踏んで、
現実にきちんと着地させてしまうことで、
それなりの説得力をもった成果物が出来上がっている。
これを建築でやってのけてるところは恐らくもの凄いことなんじゃないか。

建築に比べてグラフィックデザインは、
結果に対する評価の仕方が全く違っていて、
そこに住まう(使用する)人間に直接実生活面で作用する点で、
グラフィックよりも「シビアである」と、
思われているんではないか。これはデザイナーも含めて。

それゆえ建築は最終的にカタチになるまでのプロセスが
グラフィックに比べて格段に複雑なはずで、
そこを耐えしのげるだけの説得力は弁が立つとか
そういった小手先のこと以上に相当な緻密さを必要とするはず。
(少なくとも伊藤さんは「非常に」弁が立つとは言い難そうだし)
それができてしまっているのはただのアイデア一発ではなく、
その一発のアイデアをどこまで突き詰めて考えているか、
に懸かってくるはずで、
それはやっぱりグラフィックデザインやるにも見習うべきことなんじゃないかと。

「なんかいい」の「なんでいい」かを、
抽象的でもいいから言語化してコミュニケートする力って、
やっぱり必要ですよって、言われた気がしたこの講義。

この年でこの斬新な発想力。
めざせグラフィックデザイン界の伊藤豊雄!


http://www.youtube.com/watch?v=AkiAjzdeDJ8
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ジョン・ワーウィッカー トークショウにいって
自分の中の他者
2009年 09月 24日 (木) 21:58 | 編集
しばらく仕事が超多忙だったので書く気力もなく、
そろそろ1ヶ月分丸々放電した分を充電できてきたので
ブログでも更新してみます。

会社の人にもチラチラ存在を知られてきているようですが、
とりあえず、このブログにはあんまり目的意識もなく、
ただそのとき書きたいことを書いてみようかと続けています。
だから、過去の分もあんまり遡って読まないし、
これからの構想もあんまりありません。
そんな(更新頻度も)気ままな感じですので、
「付き合いきれん!」と思ったらしばらく読むのやめて、
しばらくたってまた読んでみると
「意外と付き合いきれる!」と思っていただけるかもしれません。

人は日々変わるもののようです。
昨日自分が書いた文章が、
今日読んでみたらまるで意味が分からなかったりします。
内田樹(うちだたつる)さんの
『こんな日本でよかったね』(文藝春秋)の序文には
人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、
人間が何かをしているときその行動を律しているのは
主体性ではなく構造である(p.5)
に傍点がしてあります。
書き物でなくても、
何かをデザインしたり、創り出したりするとき、
そこに純然たる、無垢なる「自分」を探しても、
あるのは混沌としたメモリーのカオスで、
一体自分とは何なのか、一旦考えはじめると
よくわからなくなることがあります。
「このデザイン良いね!」と思った主体となる自分の中に、
「良いね!」のもとになる「何か」が
既に床の間の壷のように居座っていて、
それを視野の片隅に置きながら「良いね!」と
言っている自分に気づいたとき、
果たして美しいとか何か「良い」とかいった感覚って
なんなんだろうと思ってしまうのです。
このときの「良いね!」はもはや
壷が落とした陰影のような存在で、
じゃあその壷のどこがいいのかといわれれば、
また別の壷が出てくるような・・・
あるいはその壷を「良いね!」と言った人の声が
やまびこのように聞こえてくるのか・・・

仕事をしながらでも色々読み物はするんだけれど、
少し休憩すると、そのとき読んでいた物事が少し整理されて、
こういうことを考える余裕ができてくるようです。
とりあえず読みかけのこの二冊は今日のおすすめ。
(あ、一応商売目的ではないのでアフィリエイトとかしてないですよ、念のため。)


b0145357_16234557.gif
※アマゾンで見つからなかったのでご本人のブログの該当記事をリンク


こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)
(2009/09/04)
内田 樹

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吉本隆明さんの講演→デザインへの道筋を考えると
2009年 01月 07日 (水) 01:04 | 編集
言語の指示表出と自己表出の話を、
デザインに関連づけて話していくとすると、
どんな方向性が見えてくるのか。

比喩として、例えば「言語」をそのまま「デザイン」という
言葉に置き換えて考えることもできるが、
話はそう簡単ではない気もする。

例えば、実際のデザインの仕事の流れを見ながら、
それぞれをつぶさに見ていくとすると、
デザインというものの「良し悪し」の観点が、
ものすごく曖昧であるという結論にたどり着くように思う。

人が「美しい・・・」と感じること自体、
これはその人の自己表出と言える。
(・・・をつけたのは独り言っぽいところを強調したかったので)
それ自体は自己表出ではあるけれど、
それを他者に知らしめるという段階になって、
指示表出の、いわゆるコミュニケーションの作法という
フィルターをかけてたのちに、
その人の発する言葉は決まる。

その人が本当は「美しい」と感じていたとしても、
社会的慣習、文化、倫理、知識、対人関係など、
あらゆる関門を抜けた後に、
その人が発する言葉は「醜い」に変わる可能性、
これは非常に高い。むしろ、
そのフィルターを通すだけで、
美の評価ができると思っている人すらかなり多い。
というのは僕の勝手な見解だけど。

吉本隆明さんが「美」術ではなく「芸術」と言ったのは
彼自身が文学畑の人であったのも一つあるが、
もうひとつ、「美」という概念そのものには、
ものすごく複雑でグレーな部分が多すぎて、
議論の難しいところであるという意味もあるのではないか。
という気がしている。

そして、この「美」と「コミュニケーション」の
板挟みにあいながら、
しかもものずごく裾野が広いために、
色んな考え方がありすぎて地図を描けないのが
「デザイン」の世界であるように思う。

「見やすい」ということが一つの絶対的価値である仕事もあれば、
「美しい」ということ、ただそれだけを求められる仕事もあり、
その中間には無数のグラデーションがある。
観点によって一つの作品が駄作にも傑作にもなる。
権威の言葉を聞いても人それぞれ。
職場によっても、クライアントによっても、
常に求められるものは違ってくる。
それを承知した上で、尚、自分がまず「いい」と思える仕事とは何なのか。
その答えはまだない。

だからと言って目の前の仕事だけしていればいいわけでもない。
とにかく、考え続けなければいけない。
焦らず、急いで、ゆっくりと。
sakubun = コンポジション
2008年 09月 19日 (金) 02:48 | 編集
夏休みの間に作っていたちょっとした本のタイトルを、
「作文」にした。さっき、フォトログの方にもアップロードしようと思ったら
フォルダの名前が英文じゃないとだめで、goo辞書で「作文」を
調べてみたら、「composition」と出てちょっと感動した。
言葉のコンポジション、カタカナ英語にすると「配置」的なニュアンスが
強くなるのだけど、なんだかこの本の意味がこれでストンと落ち着いた気がする。


最近、というか仕事はじめてからずっとか。




水平垂直の気持ちよさは、慎重に選ばないと、
ただ気持ちよくなるだけで、画面が固くなって、
コミュニケーションすら不成立しかねないことに
なってしまうことが起こりかねない。

しかも、作っている本人も、周りの大多数の人間も、
「そろっている」ということに安心してしまって、
「そのコンポジションの素直な有り様」に
目を向けられなくなってしまう。

「どこかに揃えたい」という欲求は、
デザイナーからすれば真っ当な気もするが、
本来、どこかに揃えるということの
コンポジションの内包している意味をきちんと心得ていないと、
うわべが整っているだけのデザインに陥ってしまう。
部屋を片付けられない人が、とりあえず押し入れに
散らかっているものを全て詰め込んで戸を閉めて、
「よし、片付いた」と思うのと似ている。

なぜ左に、右に、中央に、「そこ」揃えるのか、
様式美とか以前に、その文章の、意味のあり方に、
常に気をつけていたいということ。





日本語だからこそ陥りやすいことなのかもしれない。
うむう。
こういう素朴なことだからこそブログで書くことなんだろうなぁ。

あ、早く『欧文書体 2』買わねば。
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